サッカー日本代表の歴代キャプテンのまとめ!
今回はサッカー日本代表の歴代キャプテンをまとめていきます。
キャプテンは選手としての能力だけではなく人徳、コミュニケーション能力、観察眼などが求められます。
遡ることが出来るところまでまとめましたので、懐かしい名前から知らない名前まであるでしょう!
今回はワールドカップだけじゃなく、時期によってキャプテンを努めた選手を網羅しましたので最後までご覧ください。
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八重樫茂生
1968年
Aマッチ出場44試合、11得点を記録している攻撃的ミッドフィールダー。
メキシコシティオリンピックでサッカー日本代表のキャプテンとして銅メダル獲得に貢献。
第1回日本サッカー殿堂入りを果たしています。
小城得達
1969年~1974年
中盤からディフェンダーまでをこなすオールラウンドプレーヤー。東洋工業(サンフレッチェ広島の前身)において第1回日本サッカーリーグ(JSL)から4連覇を達成。
現在は広島県サッカー協会会長を務めています。
日本代表伝説のキャプテンとしてそのリーダーシップの強さが語り継がれています。
釜本邦茂
1975年~1977年
日本サッカー史上最高と言われたストライカーです。
国際Aマッチ76試合75得点を記録。
2011年になでしこjapan澤穂希選手に抜かれるまで歴代1位の得点記録を持ち、いまだに男子では歴代1位。
大柄な体と左右両足から放たれる強烈なシュートで日本代表の最前線に君臨しました。
藤島信雄
1978年
国際Aマッチ64試合出場、7得点。
日本鋼管、日本代表の両方で長年キャプテンを務めた中盤のダイナモ。
運動量があり、献身性とリーダーシップでチームを引っ張りました。
地味ながら居なければチームが機能しないいわゆる「水を運ぶ」プレイヤー。
引退後は秋田県出身ということもあり、東北地方のサッカーの普及と発展に尽力しました。
落合弘
1978年~1979年
国際Aマッチ63試合に出場し17得点を記録。
中盤から飛び出して数多くのゴールを決めました。
三菱重工で長年活躍し浦和レッズ誕生につなげ「ミスター三菱」と呼ばれましたね。
得点力があり中盤からディフェンダーまですべてのポジションをこなしたユーティリティープレーヤー。
引退後は浦和レッズのコーチングスタッフを長年務めました。
前田秀樹
1980年~1981年
攻撃的ミッドフィールダーからリベロにコンバートされた小柄な万能型プレーヤー。
法政大学時代に日本代表に選出され古河電工で活躍しました。
1981年および1982年に日本サッカーリーグのベストイレブンを受賞しています。
引退後も指導者として活躍して水戸ホーリーホックの監督を務めました。
田口光久
1982年~1984年
国際Aマッチ59試合に出場。ふくよかな体型でしたが軽いフットワークでゴールマウスを守りました。
至近距離でのシュートセーブに優れています。
引退後は青森山田高校の監督に就任。
日本テレビ系「とんねるずの生でダラダラいかせて」に出演し、PK対決コーナーでの木梨憲武のパートナーとしてゴールキーパーを務めました。
木村和司
1986年
類まれなキック精度で直接フリーキック、ラストパスで得点チャンスを量産した背番号10
10番の技術力、創造性に優れた天才型ミッドフィールダーの先駆け的な存在です。
エースとキャプテンは荷が重かったのか、加藤久に交代しましたが、キャプテンマークを巻かずともカリスマとして影響力を発揮しました。
加藤久
1985年~87年
ちょび髭が印象的な守備職人で読売クラブを支え、黄金期に繋げた功労者です。
サッカーをしながらも早稲田大学で研究を続けて「中学生サッカー選手におけるストレスの構造分析」を提出し「博士(学術)」の学位を取得。
1986 FIFAワールドカップ・アジア予選では主将を務めましたが予選敗退。
Jリーグ発足前の日本代表で大きな役割をはたし、引退後は東京ヴェルディ、京都パープルサンガで指揮を執り、監修したサッカー少年向けの技術入門書は全国の図書館に置かれており、この本を見て練習したサッカー少年の数は計り知れません。
原博実
1988年
国際Aマッチ75試合に出場して37ゴールを決め歴代3位の得点記録を持ちます。
ヘディングシュートが得意で「アジアの核弾頭」と呼ばれました。
左足からの強烈なシュートも得意。
人望とコミュニケーション能力があり引退後は浦和レッズ、FC東京で指揮を執り日本サッカー協会、Jリーグの要職で活躍。
ザッケローニ、アギーレの日本代表監督招聘に大きくかかわりました。
明治大学時代の長友佑都選手を見出してFC東京でデビューさせましたね。。
松永成立
1989年
180㎝と小柄なゴールキーパーですが瞬発力、スピードが持ち味でシュートストップに定評があったゴールキーパー。
ドーハの悲劇を経験。
ロスタイムでの失点は何度もリプレイで流されています。
日本代表を退いた後は横浜マリノスで若手だった川口能活選手に大きな影響を与えました。
引退後はゴールキーパーコーチとして活躍。
森下申一
1990年
1985年にサッカー日本代表に選出され、その年のワールドカップ・メキシコ大会予選で活躍しました。
国際Aマッチ 28試合に出場。
足元の技術に優れたゴールキーパーの先駆け的存在で身長もあり万能型で安定感がありジュビロ磐田などで活躍しました。
引退後はJリーグ、なでしこリーグのゴールキーパーコーチとして活躍。
柱谷哲二
1991年~1995年
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センターバックとボランチを務めた高身長の守備職人。
オフト体制ではラモス瑠偉選手、三浦知良選手などスター選手のまとめ役に読売ヴェルディの闘将こと柱谷哲二選手がキャプテンに抜擢。
読売の選手を柱谷哲二選手、その他を井原正巳選手がまとめていて中山雅史選手がムードメーカーでした。
井原正巳
1996年~1999年
カバーリング能力、フィード能力に優れたセンターバックで「アジアの壁」と称されました。
柱谷哲二選手が抜けた加茂体制~第1次岡田体制でキャプテンを務め、日本代表が初めて出場したフランスのワールドカップでキャプテンを務めました。
引退後はアビスパ福岡で監督を務めJ1昇格に導いています。
歴代2位の日本代表出場記録を持ちます。
森岡隆三
2000年~2002年
2002年日韓共催のワールドカップではキャプテンとして出場したものの第1戦のベルギー戦で負傷。
宮本恒靖選手にポジションを譲りましたが、トルシエ体制の3バックの真ん中を主に務めていました。
ディフェンスライン統率能力とフィード能力に優れたリベロ。
中田英寿
2002年~2004年
セリエAで活躍したワールドクラスのボールキープ能力、スルーパスを持つミッドフィールダー。
代表引退を考えていた司令塔はジーコの引き留めによって翻意し、ジーコ体制発足時からキャプテンを務めました。
怪我で長期離脱したさいに代表入りしていた宮本恒靖選手にキャプテンを譲りました。
宮本恒靖
2004年~2006年
ジーコJAPANでは、中田英寿が故障で離脱してキャプテンとなりました。
持ち前のキャプテンシーで海外組と国内組のギャップを埋めチームを統率。
センターバックとしては小柄ですがコーチングと頭脳的なカバーリングで日本代表のディフェンスラインに君臨しました。
川口能活
2006年~2008年
ドイツワールドカップ後にイビチャ・オシム監督が就任してキャプテンに指名されました。
ゴールキーパーにビルドアップ能力を求めるオシム監督の戦術に苦しみながらもチームをまとめました。
楢崎正剛選手にポジションを明け渡したこととオシム監督が病に倒れ岡田武史監督が就任したことがきっかけでキャプテンから外れることに。
中澤佑二
2008年~2010年
アフロヘアーが特徴の空中戦で無類の強さを発揮するセンターバック。
愛称「ボンバー」。
緊急的に誕生した第2次岡田体制では横浜マリノス時代に監督と信頼関係があったこともあり、キャプテンに就任。
エース中村俊輔選手と元チームメイトで親交が深く孤立しないようにサポートしていた姿も印象的で、その中村俊輔選手からのセットプレーで多くのゴールを決めました。
長谷部誠
2010年~2018年
不調に陥った岡田体制でワールドカップ直前にキャプテンに就任しました。
中村俊輔選手やベテラン組と本田圭佑選手や若手組の間を取り持つことができるとして岡田武史監督からキャプテンを指名されました。
バランサー型のボランチで中盤に欠かせない選手として長年日本代表のキャプテンとして活躍。
キャプテンとして歴代最多出場記録を持ち、出場試合数は歴代3位。
青山敏弘
2018年~
森保体制でキャプテンを任されたのはサンフレッチェ広島で森保監督のもとでリーグ優勝を達成した青山敏弘選手。
ロングフィード、ミドルシュートにすぐれた中盤のゲームメイカーで監督から絶大な信頼を受けます。
年齢的にもカタールワールドカップまでポジションを守れるか微妙で森保体制立ち上げ期のみのキャプテンとなるかもしれません。
試合途中からキャンペーンマークをつけた選手
正式なキャプテンではなかったもののキャプテンがケガで不在だったり試合に出ていないときにキャプテンを任されることが多かった選手を紹介します。
中山雅史
スーパーサブとして起用されることが多かったムードメーカーはジュビロ磐田で30得点を決めるなどJリーグで最も結果を出していたストライカーでしたが代表では中心選手になりきれませんでした。
それでも、ピッチ外での貢献度が高くチームメイトから絶大の信頼を得ていたことから途中から出場した際には中山雅史選手にキャプテンマークを渡すことが多かったですね。
選手からもサポーターからも愛された選手です。
遠藤保仁
日本代表出場試合数は歴代最多です。
長年日本代表のボランチも位置からゲームメイクした名パサー。
性格的にまわりを引っ張るタイプではなかったためキャプテンは長谷部誠選手が務めることが多かったですが、不在の際にキャプテンマークを巻いていました。
精神的にゆとりがあり、気負わない性格はベテランとなってから若手選手と違和感なく溶け込み長く日本代表で活躍。
本田圭佑
遠藤保仁選手が年齢的な理由によりハリルホジッチ監督から外された際に長谷部誠選手不在のタイミングでキャプテンを任されていました。
強いメンタリティーと濃いキャラクターはキャプテンであろうがなかろうが強烈な影響力を発揮していて大事な場面で多くの得点を決める頼りがいのある選手。
意外にもキャプテンとして試合に出場したのは数試合ですね。
吉田麻也
長谷部誠選手、本田圭佑選手も年齢的に怪我が増えていてメンバーから漏れることが多くなり吉田麻也選手がキャプテンとなることもありました。
ロンドンオリンピック、VVVフェンロでキャプテンを経験済みの海外経験が豊富なセンターバックはキャプテンの違和感はまるでなく、森保体制でもキャプテンマークを巻く機会は増えると思います。
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最後に
いかがでしたか?
今回はサッカー日本代表歴代キャプテン特集でした。
昔のキャプテンは熱血リーダー型、近年は中間管理職型が多い印象です。
また、釜本邦茂選手、木村和司選手、中田英寿選手の例を見てもその時のチームのエースはキャプテンにならないことが多いですし、長続きしていないのも特徴ですね。
エースとサブ、海外組と国内組、監督と選手の間を埋めることができるタイプが適任なのでしょう。
長谷部誠選手が引退した後、誰がキャプテンに落ち着いていくのか注目です!
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