今回は
ACミランの10番
の系譜を辿っていきます。
1986年から2017年まで続いたベルルスコーニ体制(元イタリア首相でありオーナー)ではトップ下に天才的な司令塔を好み10番を獲得してきました。
そのやり方とセリエAがうまくいかなくなっていった歴史が10番の選手を見ると分かると思いますので最後までご覧ください!
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ジャンニ・リベラ
ACミラン所属期間1960-1979年 501試合122ゴール(1995年に固定背番号制になる前の選手のため10番を背負った時期の記録は不明)
セリエA歴代2位の年少記録を持つ「天才」リベラ選手は1960年にACミランに移籍してから 1969年にバロンドール受賞。
1972~73年シーズンにセリエA得点王。スクデット2回(リーグ優勝)1962年・1966年・1970年・1974年ワールドカップ出場。イタリア代表60試合出場、14得点。
プレースタイルは典型的なファンタジスタでゲームメイカー能力と卓越したシュートセンスを誇ります。「超頭脳」という愛称で呼ばれていたようです。
イタリアサッカーが守備的であることを批判し、逆に守備をしないことを批判され、ロベルト・バッジオ選手やアルベルティーニ選手などファンタジスタ系の選手は必ずリベラ選手と比較されました。
ルックスもセクシー!
元祖ファンタジスタ的な存在。
ルート・フリット
ミラン所属時期1987-1993年 117試合35得点
グーリットとも表記されることが多いですが同一人物です。
1987年に当時史上最高額でPSVアイントフォーヘンからACミランへ移籍。
マルコ・ファンバステン選手、フランコ・ライカールト選手とともに「オランダトリオ」と呼ばれ、この年にバロンドール受賞。
アリゴ・サッキ監督とともにミラン黄金期を作り出しました。
どのポジションでもできるユーティリティープレイヤーの先駆け的な存在で「サッカーの革命児」 と呼ばれました。
サッカーゲームではポジション適性が多く使い勝手が良かったという方も多いのではないでしょうか。
デヤン・サヴィチェヴィッチ
1995 – 1998年 48試合7ゴール(10番を背負った時期の記録)
90年代のミラン黄金期にエースナンバーを背負った旧ユーゴスラビア代表のサビチェビッチ選手。
現在はモンテネグロ国籍。
ユーゴスラビア代表ではドラガン・ストイコビッチ選手にポジションを奪われるが「天才」というその異名の通り、プレーに波はあるがドリブルとテクニック、創造性は世界最高峰。
1993-94シーズンのチャンピオンズリーグ決勝、バルセロナ戦よロングシュートで4-0で勝利した試合は伝説!
10番をつけた最後のシーズンは1997 – 1998年シーズンはわずか8試合0得点。
ズボニミール・ボバン
1998 – 2001年 50試合10ゴール
こちらも旧ユーゴスラビア代表でクロアチア代表。
「サッカーは戦争とおなじだという人は本当の戦争を知らない」という言葉を残したことで有名。
サビチェビッチとは違い、守備の激しさとキック精度、視野の広さでゲームを組み立て、クロアチア代表としては日本代表も対戦した1998年のフランスW杯での活躍が印象的。
ボバン選手が骨折したと日本のメディアがこぞって報道しましたが、試合には問題なく出場。
日本中が騙されていました。
ミランでは背番号10をサビチェビッチから受け継いで1度のスクデット獲得(リーグ優勝)
「チェスは生活の一部」と語るほどのチェス愛好家でサッカーの戦術眼に生かされていたと思います。
マヌエル・ルイ・コスタ
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2001 – 2006年124試合4ゴール
柔らかいスルーパスとダンディーなルックスでフィオレンティーナでバティストゥータとのコンビネーションで活躍して約50億円でミランに移籍し、2002-03シーズンにはチャンピオンズリーグ優勝に貢献。
2003年にカカが加入してからトップ下のポジションを奪われました。
これだけの大金をつぎ込んだにもかかわらず愛されたのは本人の人間性やサッカー選手としての才能を認められていたらということ。
そしてACミランがチャンピオンズリーグもスクデット(リーグ優勝)も獲得していてそこまで落ちぶれていない時期だったのもあるでしょう。
クラレンス・セードルフ
2006 – 2012年 144試合27ゴール
2000年代中頃、アンドレア・ピルロやジェンナーロ・ガットゥーゾ、カカらとひし形の中盤を形成。
トップ下はカカだったのでインサイドハーフでの起用が多かったです。
ルイ・コスタが移籍して背番号が20から10へ変更。
卓越した技術と身体能力、サッカーインテリジェンスの高さでピルロとともに中盤の指揮官として君臨!
ミランでは2度、チャンピオンズリーグ優勝を果たしてアンチェロッティ監督と黄金期を過ごした。
異なる3つのクラブでチャンピオンズリーグ優勝を果たしたのはセードルフだけ(アヤックス、レアル・マドリー、ミラン)
2010~2011年シーズンにスクデットを獲得しています。
ケヴィン=プリンス・ボアテング
2012 – 2013年 29試合2ゴール
驚異的な身体能力を誇りテクニックもあるボアテング。
ミランではセードルフが去った2012年に背番号10を背負うも明らかに上記の選手と比較するのは可哀想な選手。
ミランはこの頃からもう世界トップクラスの選手が獲得できなくなっていたことがボアテングが10番だったことからもわかりますね。
翌年にローンでシャルケへ放出。
バイエルンミュンヘンのボアテングとは異母兄弟。
本田圭佑
2014年 -2017年 81試合9ゴール
日本代表監督ザッケローニの推薦まもありCSKAモスクワと契約が切れていたためフリー(移籍金なし)で獲得。
このころのミランは世界トップクラスの選手を取る金はないが世界トップクラスの話題性を持つ選手を0円で獲得することでブランドを維持したいという狙いもあったように思います。
本田圭佑選手は強靭なキープ力と左足から繰り出されるフリーキック、ミドルシュート、スルーパスは典型的な10番にふさわしいスキルを持っていました。
しかし、10番という役割自体が絶滅しつつある現代サッカーの流れとACミランの最悪期に直面し、期待外れの活躍に終わってしまいました。
トップ下が本職の本田圭佑選手にはトップ下がそもそもないシステムが多く、右サイドのアタッカーとして見られてしまったことが不幸でしたね。
監督交代が相次ぐ中でポジションが本職ではなくても献身的にプレーしていた姿勢を評価する声も多いです。
本田圭佑選手に対するミランOBの評価がすべてを表していると思ったので紹介します。
ガットゥーゾのコメント
「もっと後ろのポジションでプレーしたほうがいいがアイツは“今できること”を可能な限り、まさに日本人らしくマジメに、最大限にやってると俺は思うぜ。それこそ本田に見られる集中力と同じレベルを他のヤツらが持つだけで今ある問題の50%は解決できる。」
マルディーニのコメント
「ミランというクラブ内部が過去30年で最悪とされる混乱に苛まれている。もうあと2・3年でも早ければ彼はまったく違った環境下でその才能を発揮できたのではないか。もっとも、2・3年前のミランに彼が入れたかどうかはまた別の話なのだろうが」
ACミランの1時代の終焉とトップ下時代の終焉の場面にやってきた10番は多くの批判にさらされましたが、チーム事情やホジションの不一致を考えると、失敗というイメージしかないミランでの本田圭佑選手ですが81試合9ゴールという数字は悪くないと思いますし、後に評価されるんじゃないでしょうか。
最後に
いかがでしたか?
本田圭佑選手の次の新10番はトルコ代表でレバークーゼンから移籍してきたチャルハノール選手になりそうです。
世界トップクラスの選手とは言い難い選手ですが、中国資本が入ってはじめての10番としてACミランが復権していくのか注目です!
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